目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献

HOME>(a)「本多」人名辞典

本多家の家紋「丸に立ち葵」 「本 多」 人 名 辞 典 本多家の家紋「立ち葵」

 
索 引 (50音順)

しげつぐ 本多重次

ただかず 本多忠籌

ただかつ 本多忠勝

ただずみ 本多忠純

ただちか 本多忠周

ただつぐ 本多忠次

ただつね 本多忠恒

ただとき 本多忠刻

ただとし 本多忠利

ただとも 本多忠朝

ただひろ 本多忠寛

ただまさ 本多忠政

ただもち 本多忠以

ただよし 本多忠義

としとも 本多利朝

としなが 本多利長

とみまさ 本多富正

なりしげ 本多成重

のりさだ 本多紀貞

ひろたか 本多廣孝

まさしげ 本多正重

まさしげ 本多政重

まさずみ 本多正純

まさとし 本多正利

まさなが 本多政長

まさなが 本多正永

まさのぶ 本多正信

まさのぶ 本多政信

やすしげ 本多康重

やすとし 本多康俊

やすとし 本多康紀

しけつぐ 本多重次
●1529〜1596
●安士桃山時代の武将。幼名八蔵、のち作十郎・作左衛門。
●天文4年(1535)より松平清康に仕え、のち広忠・家康の三代に歴仕。
●永禄8年(1565)3月7日高力与佐衛門清長・天野三郎兵衛康景と共に奉行となり、鬼作左の名をえる。諸方に転戦。
●豊臣秀吉の母大政所が人質として岡崎に下向のとき、井伊直政と共に守護するが、居館の側に薪を積み、京都に変事が起れば、ただちに火をつける態勢をととのえたという。それにより秀吉の心証を害し、上総国古井戸(三千石)に屏居、のち下総国相馬都井野に移り、そこにて死ぬ。忌日7月16日。法名は高分(あるいは浄運)、葬地は井野青柳村の本願寺。
●妻は鳥居伊賀守忠吉の女、一男(成重)四女あり。
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ただかず 本多忠籌
●1737〜1812
●磐城(福島県)泉城主。経世済民の学を佐藤信淵の父玄明窩に学び、また中沢道二らに学んだ心学を通じて松平定信と親交があった。
●襲封以来堕胎間引を禁じ、小児の養育を奨励して人口の増殖をはかり、天明の飢饉ののち郷蔵を設置して備荒貯蓄の策をたて心学道場善教舎を設立して領民の教化に資するなど、薄政まことにみるべきものあり、定信老中となるや、抜擢されて若年寄・側用人を経て老中として寛政の改革をたすけ、定信をして「大なる罪戻なく過したるは忠籌朝臣の庇陰也」(字下の人言)といわしめ、定信の老中罷免後も老中として幕政に参与した。
 
ただかつ 本多忠勝
●1548〜1610
●江戸時代初期の大名。徳川氏の重臣。三河国(愛知県)に生れる。幼名鍋之肋のち平八郎。
●従五位下中務大輔。家康に仕え、諸所の合戦に従軍し武功をあげ井伊直政・榊原康政・酒井忠勝と共に徳川の四天王の一人に数えられ、徳川氏創業の功臣として名高い。
●永禄3年(1560)徳川家康に従って尾張大高城に入る。のち五十余度の合戦に功を樹て(傷を受けることなしという)、天正18年(1590)、関東入国のさい上総国大多喜城(十万石)に入る。
●慶長6年(1601)伊勢国桑名城(十万石)に移り、大多喜城は次子忠朝に譲る(五万石)。
●慶長8年(1603)家康の将軍宣下参内に供奉。慶長15年(1603)10月18日、桑名にて死ぬ。法号は長挙良信西岸寺、葬地は桑名浄土寺。
●妻は阿知和右衛門の女。二男五女あり、長子忠政は姫路城主となる。
★その後、転封をかさね、明和6年(1769)に忠肅(ただとし)が三河岡崎に入封し定着。忠直のとき廃藩置県を迎えた。
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ただずみ 本多忠純
●1586〜1631
●下野榎本二万八千石
●通称大学。従五位下大隅守。正信の三男。家康に仕え、慶長十年(1605)に下野榎本一万石を与えられた。元和元年(1615)に一万八千石を加増されている。
★寛永17年(1640)、三代犬千代某のとき継嗣なく断絶した。
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ただちか 本多忠周
●1662〜1712
●初名忠当(ただまさ)。通称千之助、酒之允。従五位下淡路守。忠義の五男。二千五百石を分与され別家となり、大番頭、寺社奉行などを歴任した。この間、加増をかさね天和3年(1683)に三河足助で一万石を領した。
●貞享4年(1687)、勘気をうけ寺社奉行を罷免され逼塞処分をうけ、元禄2年(1689)に許されて七千石に減封された。
 
ただつぐ 本多忠次(1)
●1547〜1612
●江戸時代初期の武将。 幼名は彦八郎、のちに隼人佐・縫殿助を称すという。
●永禄7年(1564)徳川家康の吉田域攻めの先登となり、三河国(愛知県)宝飯・渥美両郡のうちに五千貫を領す。姉川・長篠の合戦、高天神城改めにも戦功あり。 督姫(家康の次女)の北条氏直との結婚(天正11年8月11日入輿)に供奉。
●天正17年(1589)隠居して康俊(酒井忠次の次男、天正7年養子縁組)に家督を譲る。一説に慶長18年(1613)4月6日三河国西尾で死ぬ(66歳)ともいう。 法名は松見、葬地は西尾の郊原。
●妻は菅沼織部正定村の女。
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ただつぐ 本多忠次(2)
●1610〜1626
●下野国(栃木県)榎本・皆川の領主。 本多忠純(二万八千石)の長子。
●寛永元年(1624)に家光に初謁したが二年後に死ぬ。法名は宗哲。
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ただつぐ 本多忠次(3)
●1679〜1711
●三河国挙母(ころも)藩主。毛利甲斐守網元(長州藩主)の次男。母は池田新太郎光政の女。
●元禄5年(1692)7月26日忠利の養子となり、元禄13年(1700)7月2日遺領を継ぐ(一万石)。
●忌日12月23日、貞山玄簾、高徳院。葬地は挙母浄心寺、のち近江国高野永源寺に改葬。
●妻は忠利の女、二男三女あり。嗣子忠央は若年寄在職中に美濃国郡上郡(金森頼錦の所領)の強訴事件の揉消しを行ったことから所領を没収されている。(明和5年正月9日赦免、家は五百俵・寄合にて存続。)
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ただつね 本多忠恒
●1657〜1704
●通称織部。従五位下伊予守。近江膳所藩本多康将の次男。
●延宝7年(1679)に一万石を分与され別家となった。
★享保17年(1732)、伊勢神戸一万五千石に入封し定着。八代忠貴(ただつら)のとき廃藩置県を迎えた。
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ただとき 本多忠刻
●1596〜1626
●初名忠為。通称平八郎。従五位下中務大輔。忠勝の孫にあたる。母は家康の長男信康の娘。
●元和3年(1617) に播磨内で十万石を与えられ、父の居城姫路城に住んだ。
●寛永3年(1626)、病死し遺領は二分された。
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ただとし 本多忠利(1)
●1600〜1645
●三河国(愛知県)岡崎城主。康紀の嫡男。慶長18年(1613)徳川秀忠の諱を賜わって忠利。
●元和元年(1615)大坂夏の陣に父に従って奮戦、6月従五位下伊勢守に叙せらる。
●元和9年(1623)父の遺領岡崎を継ぎ、寛永11年(1634)家光上洛の際、宿所となり五千石を加増された。城の土居を石垣とし、川を移し、西搦手門を造るなど、その整備に努めた。
●正保2年(1645)正月遠江国(静岡県)横須賀に転封を命ぜられたが、2月病死のため果さなかった。
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ただとし 本多忠利(2)
●1635〜1700
●遠江相良一万石
●通称一学。従五位下山城守・長門守。忠義の次男。寛文2年(1662)に一万石を分与され別家となった。その後、奏者番、寺社奉行を歴任。天和元年(1681)に三河挙母に移封された。
★宝暦8年(1758)、三代忠央(ただなか)のとき若年寄在職中の不正により改易された。
 
ただとも 本多忠朝
●1582〜1615
●大和内四万石
●通称内記。従五位下出雲守。忠勝の次男。
●家康に仕え、慶長6年(1600)に上総大多喜五万石を与えられた。元和元年(1615)の大坂の陣に戦死した。
★慶安3年(1650)、四代勝行(かつゆき)のとき継嗣なく断絶した。
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ただひろ 本多忠寛
●1832〜1881
●通称修理。従五位下美作守。嘉永5年(1562)に家督を相続し、三河西端九千石を知行した。元治元年(1864)、天狗党追討の功により一万石余に加増され大名となった。慶応2年(1866)、致仕。
★二代忠鵬(ただゆき)のとき廃藩置県を迎えた。
 
ただまさ 本多忠政
●1575〜1631
●播磨国姫路藩主。小田原征伐に父忠勝と共に出陣、武蔵国岩槻城を攻略、この年に岡崎三郎信康(家康の長子)の女と結婚。景勝征伐・上田城攻めに従い、慶長15年(1610)11月15日遺領(伊勢国桑名城十万石)を継ぐ。大坂の陣に参加、秀忠の参内に供奉。
●元和3年(1617)7月14日姫路に移り(十五万石)、翌年城を改築。福島正則の領地没収には広島城に入り諸事を奉行する。
●寛永3年(1626)8月19日従四位下・侍従。
●寛永8年(1631)秀忠の病気を聞いて参府を急ぐ途中、病をえて8月10日江戸に着いた日に死ぬ。法号は秋誉長岳道悟、大乾院。葬地は播磨国書写山。
★なお、田沼時代から寛政改革ごろの西丸書院番士本多忠昭[1756〜1798、康俊(近江国膳所)の三男俊昌のあと]の弟に忠政(幼名栄之丞)を名のる者あり。
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ただもち 本多忠以
●1640〜1664
●初名忠序(ただのぶ)。通称官兵衛。従五位下越中守。忠義の三男。寛文2年(1662)に陸奥浅川で一万石を分与され別家となった。
★その後、転封をかさね、延享3年(1746)に陸奥泉一万八千石に入封して定着。十代忠伸(ただのぶ)のとき廃藩置県を迎えた。
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ただよし 本多忠義
●1602〜1676
●初名忠光。通称右兵衛。従五位下能登守。忠勝の孫にあたる。母は家康の長男信康の娘。
●寛永3年(1626)、兄忠刻の遺領のうち四万石を分与され、姫路城内に住んだ。
●同16年に遠江掛川六万石へ加増転封となり、さらに慶安2年(1649)には陸奥白河十二万石に転封されている。寛文2年(1662)、致仕。
★大和郡山五万石。享保7年(1722)、五代忠村(ただむら)のとき13歳で死去し、五万石に減封のうえ弟忠烈(ただつら)が相続したが、翌年没し断絶となった。
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としとも 本多利朝
●?〜1610
●正武、俊正ともいう。通称半右衛門、従五位下因幡守。秀吉に仕え、一万石を領した。
●慶長8年(1603)に家督を相続し、大和高取で二万五千石を領した。
★寛永14年(1637)、二代利長(としなが)のとき継嗣なく断絶となった。
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としなが 本多利長
●1635〜1692
忠利の次子。正保2年(1645)父の遺領岡崎(愛知県)を継ぎ、従五位下越前守に叙せられた。このとき領地のうち四千五百石を庶兄内膳助久に、二千石を弟式部利明に分け与えた。同年6月遠州(静岡県)横須賀に転封されたが、民を虐げ、酒を噛み、色に耽けるなどの不行跡多く、天和2年(1682)領地を没収され、わずかに祖先の勲労をもって出羽国村山郡内において仏餉料一万石を賜わった。利長のあとは養子助芳(肋久の子)が継ぐ。
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とみまさ 本多富正
●?〜1649
●重富(重次の兄)の嫡子。通称源四郎
●小牧の役後、豊臣秀吉の養子(人質)となった於義丸(秀康)に付いて上坂した成重に代わり、後年人質となる。
●従五位下伊豆守。慶長16年(1611)3月20日叙任後丹波守。越前家人と為る。
●慶安2年8月12日卒。79歳
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なりしげ 本多成重
●1572〜1647
●江戸時代初期の大名。徳川家康の重臣本多作左衛門重次の嫡男。浜松に生れ、幼名を仙千代という。
●通称丹下、二郎大夫。従五位下飛騨守。
●家康の小姓となり、小牧の役後、豊臣秀吉の養子(人質)となった秀康に従って大坂に赴く。
●小田原役には徳川軍の後備となり、家康の女で北条氏直の妻となった督姫を陣営に迎えた。
●関ケ原の役の戦功で、慶長7年(1602)近江蒲生郡に二千石を与えられ、慶長18年(1613)に越前府中藩松平忠直の付家老となり越前丸岡で四万石を領した。
●大坂冬の陣には忠直の先鋒として天王寺口に奮戦し、夏の陣にも城内一番攻めに功を挙げた。 元和元年(1615)従五位下飛騨守に叙任し、元和9年(1623)の忠直改易後、寛永元年(1624)召し返され同所において六千三百石を加増され四万六千石余を領した。
★元禄8年(1695)、四代重益(しげます)のとき家政不良で改易となった。
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のりさだ 本多紀貞
●上野白井一万石
●1580〜1623
●通称二郎八。 従五位下対馬守・備前守。康重の三男。
●元和4年(1618)に上野白井で一万石を領し、大番頭をつとめた。
●元和9年(1623)に死去し継嗣なく断絶した。
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ひろたか 本多廣孝
●1527〜1596
●安士桃山時代の武将。父は信重。三河国(愛知県)碧海部土井郷の出身。
●松平広忠に仕え、永禄4年(1561)徳川家康の三河経略に従い、東条の吉良義昭を討ち、小坂井に戦い、あるいは一向一揆を破った。永禄7年(1564)今川氏の三河田原城を降してこれを領した。
●長篠の役では鳶巣山に武田軍を撃破し、天正4年(1576)犬居城攻めに功を挙げて、翌年遠江に二千貫の所領を与えられた。
●天正11年(1583)従五位下、豊後守に叙任し、小牧の役では小幡の砦を守り、九州征伐に従い、豊前岩石城の攻撃に抜群の功をたてた。
●家康の関東入国後、上野白井に隠居料として一万二千石を与えられた。
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まさしげ 本多正重
●1545〜1617
●安土桃山時代の武将。本多俊正の四男。三河の出身。
●通称三弥左衛門。
●徳川家康に仕えたが、永禄6年(1563)長兄正信とともに一向一揆に加わって家康に叛いたが、のち帰参した。永禄11年(1568)掛川城攻めに功をたて、姉川の戦には徳川方の先鋒となり、三方原の戦に参加し、天正3年(1575)の長篠の戦、遠江二股城攻めに戦功があった。槍に武勇の名を挙げ、織田信長から海道一の勇士として称賛を受けた。
●その後家康のもとを去り、天正4年(1576)滝川一益に仕え、天正6年(1578)の播磨神吉城攻めに先登したが、ほどなく前田利家に仕え、天正12年(1584)の能登末森の戦には前田の隊長として佐々成政の兵を討ち、ついで蒲生氏郷に仕えて、九州征伐の豊前岩石城攻めに先登して戦った。
●ほどなく氏郷と争って蒲生氏を去り、慶長元年(1596)家康の麾下に戻り、関ヶ原戦に従い、慶長7年(1602)近江坂田郡に一千石を与えられた。
●大坂陣の戦功で元和2年(1616)下総相馬郡に加増され、合計一万石を領したが、三たび家康のもとを去り京都に隠棲した。野戦の驍将として勇名を馳せたが、生来のわがままで、長く一所に仕官する道を選ばなかった。
●元和3年(1617)、死去し二千石を滅封され子孫は幕臣となった。
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まさしげ 本多政重
●1580〜1647
●江戸時代初期の大名。徳川家康の重臣本多正信の二男。
●慶長2年(1597)大谷吉隆に仕え、慶長4年(1599)年宇喜多秀家に仕官して二万石を得た。関ケ原役に西軍に従い、近江堅田に隠れ、のち福島正則に頼り、ついで慶長7年(1602)前田利家に仕え三万石を与えられた。ほどなく辞して京都に赴き、直江兼続の女婿となり直江勝吉と称した。
●慶長16年(1611)前田家に帰参して旧禄三万石を食み、慶長18年(1613)二万石を加増され、前田家筆頭の重臣となった。
●大坂陣に軍勢をたて、安房守に任ぜられた。
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まさずみ 本多正純
●1565〜1637
●江戸時代初期の大名。通称弥八郎。従五位下上野介。正信の長男。
●幼時より家康に近侍し、早くから奉行として才幹を示した。
●慶長6年(1601)従五位下、上野介に叙任され、慶長12年(1607)家康が駿府に移ると、その執政となった。ときに下野小山および近江の三万三千石の小大名にすぎなかったが、家康の信任すこぶる厚く、その帷幄にあって枢機に与り、将軍秀忠の執政となった父正信と並んで、その権勢他を圧した。 この間豊臣氏討減を画策し、大坂陣には大坂城総壕の埋立ての奉行を掌って功をおさめた。
●「武家諸法度」の制定に参画したほか、慶長18年(1613)大久保長安の事件を契機として、幕政の有力者大久保忠隣を改易に処し、また福島正則の改易の口実を見出すなど、すこぶる辣腕を振い、その権威が甚だ高かったため、諸人の猜疑嫉視を招きがちであった。
●家康の死後幕府の執政となり、元和3年(1617)日光東照宮造営の奉行を勤め、元和5年(1619)下野宇都宮十五万五千石に封ぜられた。
●元和8年(1622)10月最上義俊の領地没収に出羽国最上に赴いたとき、突然秀忠の勘気にふれて同国由利に流謫を命ぜられ、食邑五万五千石を与えられた。しかし自らこれを辞し、翌年同国大沢に千石を与えられ、ついで佐竹義宜の預りとして同国横手に移され、謫居16年ののちに病没した。
●正純失脚の原因は、巷間流布されている宇都宮釣天井事件は俗説であるが、彼のために没落せしめられた大久保一族および宇都宮から下総古河に移された奥平忠昌の祖母亀姫(家康の女)らの策謀や、秀忠周辺の反対派勢力の攻撃によるものとされている。
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まさとし 本多正利
●1641〜?
●通称弾正左衛門。従五位下出雲守。大和郡山藩本多政勝の四男。寛文11年(1671)に六万石を分与され別家となった。延宝7年(1679)にこのうち三万石を返還し、あらたに幕府より播磨明石三万石を与えられた。その後、天和2年(1682)に家政不良により陸奥岩瀬一万石に減転封された。
●元禄6年(1693)、不行跡により改易きれた。
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まさなが 本多政長
●1633〜1679
●通称勘右衛門。従五位下市正・中務大輔。播磨姫路藩本多政朝の次男で義兄政勝の養嗣子となる。
●承応2年(1653)に大和内で三万石を領した。
●寛文11年(1671)に家督を相続し、自身の所領と合わせて大和郡山十二万石を領した。
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まさなが 本多正永
●1645〜1711
●通称武兵衛、三弥。従四位下侍従兼伯耆守・豊前守・紀伊守。
●延宝5年(1677)に家督を相続し七千石を知行し、大番頭、寺社奉行、若年寄を歴任。
●宝永19年(1704)に老中にすすみ幕政に参与した。この間、加増をかさね、元禄元年(1688)に丹波・下総国において一万石を領知して諸侯に列し、元禄9年(1696)若年寄となる。
●元禄14年(1701)五千石加増、さらに元禄16年(1703)五千石加増され、上野国(群馬県)沼田城主に封じ、旧城を再修す。
●宝永元年(1704)老中(1704〜11)に任じ、一万石を加増、翌年さらに一万石を加え、すべて四万石を領す。法名光山信行院。子孫正矩の代に至り、享保15年(1730)駿河国田中へ転封さる。
★明治元年(1868)に安房長尾四万石に移封となり廃藩置県を迎えた。
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まさのぶ 本多正信
●1538〜1616 
●江戸時代初期の大名。
●三河国(愛知県)の出身。初名正保(まさやす)、正行。通称弥八郎、従五位下佐渡守。
●鷹匠の出身ともいわれる。幼時から徳川家康に近侍したが永禄6年(1563)弟正重とともに三河の一向一揆に加わって家康にそむき、一揆鎮定後京都に赴き、畿内あるいは加越の地を流浪し、加賀の一向一揆の将となった。
●天正10年(1582)大久保忠世の斡旋で家康のもとに帰参した。たまたま、このとき家康は上洛、本能寺の変に遭遇し、危うく岡崎に逃れ帰ったが、正信はこの帰還に尽力するところがあったといわれる。
●その後、小牧の役に功をたて、天正17年(1589)従五位下に叙せられ、佐渡守と称した。家康の関東入国とともに江戸城の経営に参画し、天正18年(1590)相模甘縄(一説には上野八幡ともいう)に一万石を与えられ、のち相撲甘縄二万二千石に加増された。
●関ケ原役に秀忠に属して東山道軍に従い、慶長12年(1607)家康が駿府に移ると、将軍秀忠の執政となった。
●正信は封はわずか三万石で高禄を貪らず、吏僚として忠勘を励み、家康の最高の謀臣として、つねに帷幄に侍して機密に参じ、家康の信頼すこぶる篤く、家康の行動は多くその献策に出たといわれる。また家康が正信をみること朋友のごとくであったとも伝えられる。「百姓は財の余らぬ様に不足なき様治る事道なり」で有名な「本佐緑」は、正信の著作に擬せられている。
●元和2年(1616)に死去し、所領は収公された。
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まさのぶ 本多政信
●1634〜1662
●従五位下監物。播磨姫路藩本多政朝の三男。正保2年(1645)に大和内で一万石を分与され別家となった。
★延宝7年(1679)、播磨山崎一万石に入封し定着。忠明(ただあきら)のとき廃薄置県を迎えた。
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やすしげ 本多康重
●1554〜1611
の長子。三河国(愛知県)碧海郡土井に生れる。はじめ彦次郡、永禄5年(1562)徳川家康の諱を賜わって康重。従五位下豊後守。
●家康に仕え、諸所の合戦に従軍した。1569年父に従い掛川城を攻めてより姉川・三方原・長篠などの戦に従う。天正5年(1577)三河の領地(田原など)を譲られて家を継ぐ。
●天正18年(1590)、関東入国のさい父と共に上野白井で二万石を領した。文禄4年(1595)従五位下豊後守に叙せられ、慶長6年(1601)に加増されて三河岡崎五万石に移封となった。
●慶長16年(1611)3月22日没。長子康紀が家督を継ぐ。
★その後、転封をかさね、享保2年(1717)に信濃飯山に入封し定着、二万石。十一代助実(すけざね)のとき廃藩置県を迎えた。
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やすとし 本多康俊
●1569〜1621
●江戸時代初期の大名。
●徳川氏の重臣酒井忠次の次男。通称隼人、彦八郎、(彦十郎?)。従五位下縫殿助。家康に仕え、長篠の戦にあたり、家康が織田信長に援兵を求め、その人質として岐阜に赴いた。12歳で本多忠次の養子となった。
●天正18年(1590)の関東入国のさい下総小篠に五千石を知行した。関ケ原役に小山の陣に従い、ついで大垣城の攻撃に功をたて、慶長6年(1601)に加増されて三河西尾二万石に移封となり、さらに大坂冬の陣に近江膳所城を守り、夏の陣に首級113をえて、その功により元和3年(1617)には近江膳所三万石を領した。
●妻は「山家三方衆」野田菅沼氏の菅沼定盈(菅沼織部正定村の子)の娘
★その後、転封をかさね、慶安4年(1651)に近江膳所に再入封し定着、六万石。14代康穣(やすしげ)のとき廃藩置県を迎えた。
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やすとし 本多康紀
●1579〜1623
康重の長子。岡崎城主。三河国(愛知県)田原に生れる。 はじめ彦次郎、天正19年(1591)家康の諱を賜わって康紀。
●慶長16年(1611)従五位下伊勢守に叙せらる。翌年正月父康重の遺領岡崎を継ぎ豊後守と称した。
●慶長19年(1614)大坂冬の陣に従い、講和後松平忠明・本多忠政と共に奉行となり、大坂城の堀を埋めた。
●元和元年(1615)夏の陣には子忠利と共に従い奮戦。岡崎に帰国後城を整備し、元和3年(1617)天守閣を完成した。
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