目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




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7.本多父子の謎

1.作左衛門、成重の家紋は?

本多氏の家紋としては「立ち葵」、「丸に立ち葵」、「本の字」の3つが使われています。
立ち葵
立ち葵 丸に立ち葵丸に立ち葵 本の字本の字

父・作左衛門は、本多裕江氏蔵の「本多作佐衛門重次像」の中で「丸に立ち葵」の紋が入った着物を着ています。また青柳、本願寺所蔵の「本多作左衛門旗印」も白地に赤く「丸に立ち葵」が染抜かれています。

寛政重修諸家譜にも「丸に立葵、丸に本の字」と2つ記されています。

しかし子・成重の家紋は「徳川300藩藩祖総覧」では「立ち葵」となっています。

どちらが正しいのでしょうか。それとも父と子で変わったのか。または2つの紋を使い分けしていたのでしょうか?

2.作左衛門は片目、びっこ?

寛永諸家系図伝」では「天正3年5月21日長篠合戦の時重次敵七八騎の中にかけ入組討ちして首をえたり其余の敵兵重次をうたんとす重次相たたかひて疵をかうぶること七箇所なり且 右の眼を切りつぶさる」と
家忠日記増補追加」では天正3年5月長篠の合戦で「武田のへ兵七八騎の中に駆け入り組対して首級を得たり残る敵と苦戦して七ヶ所の疵を被る」
寛政重修諸家譜」では「天正3年5月21日長篠合戦のとき重次敵七八騎の中に馳入、組うちして首を得たり。其餘の敵重次をうたむとす。重次相たたかつて創をかうぶること七箇所、また右の眼を害なはる」
岩淵夜話集」では天正13年に「若き時よりあの陣、此陣の御供をし片目も切つぶされ、手の指なども切もがれ、足迄もちんばに成候へば世の人のかたわと云かたわを身共一人してからげ候」と言っておる。
「三百諸侯」でも作左衛門について「武功は惣身創痕のあらざる所なく不具と云う不具は一身にあつまりたると云う程なれば・・・」とあります。しかし、「本多作佐衛門重次像」(個人蔵)では両目は健在に見えます。

「像」は若い時のもので、その後の合戦で負傷したのでしょうか?

→答:HP「取手と本多作左衛門」/「本多作左衛門の足跡を訪ねて」/『作左を歩く』によると、「作左衛門は天正3年(1575年、47歳)の長篠の合戦で片目、片足、指欠損の重傷を負っている。この像はそれ以前の42、3才のころのものと思われる。」とあります。
 
◆ 本田捷彦さん(「本多作左衛門の晩年」の著者)から次のような説をいただきました。(2000/5/1)
「本多作左右門重次像はおそらく岡崎三奉行時代のものではないでしょうか。眼のこともさることながら、足については、天正10年本能寺ノ変の際、家康主従30余人が命からがら伊賀越えをしておりますね。作左衛門もこのなかの一人でしたが皆と走りまくっているところからしますと、然した怪我でなかったのでしょう。」

3.「一筆啓上」はどうやって世間の目に触れたか?

作左衛門が陣中から妻に書いた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔な手紙として有名ですが、私信であるこの手紙がなぜこんなに有名になったのでしょうか。

元禄15年(1702年)に綱豊に呈上された「藩翰譜」に作左衛門のエピソードが多く書かれていますが、「一筆啓上」に件は見当たりません。しかし享保元年(1716年)刊行の「岩淵夜話」には記述があります。しかし、100年以上後の記述であり、これ以前に知られていたと思われますが、このことが最初に史実として表れたのは何でしょうか。

4.一筆啓上 or 一筆申す?

一般に知られている文面の他にもいくつかの文面が伝えられています。本物は?

出 展 成立年 著者 文 面
一般に知られている文面     一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ

「岩淵夜話」

享保元年
(1716)

大道寺友山 一筆申 火の用心 おせんなかすな 馬こやせ かしく
(おせんは作左衛門一人娘なりとかや)

「翁草」

安永5年
(1776)

神沢貞幹

一筆申す 火の用心 おせん病すな 馬肥せ
(おせんとは女の名なりとかや)

「三百諸侯」

明治33年
(1900)

戸川残花

一筆申す 火の用心、おせん、やさすな馬こやせ、かしく
5.手紙の宛先、作左衛門の妻は誰?

「一筆啓上」は妻に宛てた手紙ですが、作左衛門の妻は「寛政重修諸家譜」では「鳥居伊賀守忠吉の女」となっています。
また「本多作左衛門の晩年」では妻の名前は「お濃の方」で実兄が鳥居彦右衛門元忠(忠吉の次男)となっています。

しかし「寛政重修諸家譜」等の鳥居氏家系図によれば忠吉の娘は三人いますが、作左衛門の妻になった娘は見当たりません。(長女:三宅藤衛門政貞の妻/次女:姉死して後政貞の後妻/三女:松平大隅守重勝の妻)

作左衛門の妻は本当に鳥居忠吉の娘だったのでしょうか?

6.「一筆啓上」はいつ、どこで書かれたのか?

次のように諸説あり、定かではありません。本当はいつ、どこで書かれたのでしょうか?

出 典

内 容

「岩淵夜話集」 「有る時旅宿より女房の方へ状を差し越とて」
「翁草」 「或時御用にて遠所に滞留して、留守の妻女へ送文」
「三百諸侯」 「ある時旅より女房の方に」
『作左を歩く』 「出張先から妻へ送った」
みずといで湯の文化連邦 Home Page 「陣中から妻へ送った」
丸岡電子郵便局。一筆啓上の碑 「天正3年(1575)長篠の合戦の折、陣中から妻あてに」
「本多父子の年譜」ではこれを採用させてもらいました。)

◆ 本田捷彦さん(「本多作左衛門の晩年」の著者)から次のような説をいただきました。(2000/5/1)
「天正3年(1575)5月 長篠ノ戦場からとする説を間違いとは申し上げませんが、このときすでに作左衛門は於義丸のめのと役を仰せつかっており、於義丸を度外視するような手紙はありえないと思われます。ですからこの手紙は於義丸の養育係を仰せつかる前でなければなりません。
養育係を仰せつかった時期ですが、天正2年(1574)の生誕して間もなくとする説と、長篠ノ合戦後とする説があるようです。」

確かに、養育係として於義丸を預っている立場からは、手紙に自分の子供のことだけを書くとは考えられません。そうすると、「一筆啓上」が書かれた時期は「仙千代の誕生:元亀3年(1572)」から「於義丸の養育係のなる」までの間ということに次の様になります。

  作左が於義丸の養育係になった時期 「一筆啓上」を書いた時期

備 考

説1 天正2年(1574)の生誕間もなく 元亀3年(1572)~天正2年(1574) 「長篠の合戦の陣中から」というのは有りえなくなる。
説2 天正3年(1575)の長篠の合戦後 元亀3年(1572)~天正3年(1575) 長篠の合戦で大ケガを負っているのに、養育係を仰せつかることがあるのでしょうか。

益々なぞは深まります。

7.誕生日はいつ?

作左衛門は亨禄 2年(1529)に生まれたとされています。(「戦国人名辞典」には「1530-1596」)
慶長元年(1596)7月16日に(数え年)68歳で没とすると1529年生れとなる。

でも誕生日は判りません。誕生地である岡崎市に住むものとしては是非とも知りたいのですが・・・・・。

8.作左衛門の没年はいつ?

慶長元年(1596)7月16日が定説ですが、

藩翻譜」に「一説に、慶長5年関ヶ原合戦の頃まで存命にて、その時には江戸の留守たりしと云ふ。覚束なし。」ともあります。

9.蟄居の地はどこか?

作左衛門の蟄居地については次の様にいろいろな表現があります。

出 典

成立年

著者

蟄居地についての記述

「寛永諸家系図伝」 寛永20年
(1643)
太田資宗
林 羅山
上総国古井戸屏居せしめ采地三千石を給わり
「家忠日記増補追加」 寛文5年
(1665)
松平忠冬 大神君一旦秀吉の憤りを止め給わしがため重次をして上総国小井戸の郷に移らしめ、食邑三千石を賜りて蟄居
「藩翰譜」 元禄15年
(1702)
新井白石 上総国北原庄にて老養ふべき程の所領給ひて忍び忍びに御使ありて、常々門あせ給ひしが、ほどなく彼所にて終わりけること哀れなれ
「武家事紀」 延宝元年
(1673)
山鹿素行 上総国小多喜へ蟄居、五千石、作左衛門重政
「岩渕夜話」 享保元年
(1716)
大道寺友山 然れども先年、大政所守護せし挙動、此度(駿府城今宵一夜宿陣お断り)の有様、秀吉に対し神君のも憚らせ給ひて隠居させ、上総小井戸の郷にて三千石の養料賜り、懇ろに労わせ給ひしとぞ
「寛政重脩諸家譜」 文化9年
(1812)
堀田正敦 上総国古井戸に屏居せしめて三千石采地を賜り、諸役許す、後下総国相馬郡井野に移さる

当初は上総国、後に下総国のようですが、・・・・?

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