目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




 岡崎市と丸岡町 

HOME>2.本多飛騨守成重
2.本多飛騨守成重(お仙)

元亀2年(1571)重次の嫡男として浜松に生まれ、幼名を仙千代、成人して丹下と称す。

家康の小姓となり、小牧の役後の天正12年(1582)家康の子於義丸(羽柴(結城)秀康)が、秀吉の人質(養子)として京都へ送られた時に随従、それ以後秀康付きとなる。

天正18年(1590)小田原の役には徳川軍の後備となり、家康の女で北条氏直の妻となった督姫を陣営に迎えた。

父重次が秀吉の怒りにより籠居してからは、成重も出仕を止めて籠っていた。

関ヶ原の合戦の戦功で、慶長7年(1602)近江蒲生郡に二千石を与えられ、慶長18年(1613)秀康が越前に移った時付家老として丸岡藩四万三千三百石余(注1)を与えられ、正保4年(1647)まで藩主を務めた。

本多家菩提所(本光院)
本多家菩提所(本光院)
丸岡城パンフレット(霞ヶ城公園管理事務所発行)より

大坂二度の陣には秀康の子忠直に従って出陣。冬の陣には忠直の先鋒として天王寺口に奮戦し、夏の陣にも300騎で真先に進み、真田幸村の陣を打破り、自らも敵2騎を切って落とし、城門を打破り城内一番攻めの功をあげた。

元和元年(1615)従五位下飛騨守に叙任される。元和9年(1623)忠直が失脚後は将軍家の御家人となり幕府に仕え、寛永元年(1623)六千三百石を加増された。 

正保2年(1645)(注2)5月19日隠居し、嫡男の淡路守重能に家譲り、入道して土庵と号す。正保4年(1647)6月23日、76歳で世を去った。丸岡町本光院に墓所あり。

注1:「岡崎の歴史物語」「日本歴史大辞典」には四万石、「kmimuのホームページ」には四万三千石、「藩翻譜」には四万三千三百石余、「戦国人名辞典」には四万八千石とある。

注2:「新編藩翰譜」には「成重が致任せし年、卒せし年、いまだ知らず」とある。「戦国人名辞典」には正保2年(1645)とあるが、「kmimuのホームページ」には正保4年(1647)まで城主を務めたとあり、76歳没を満年齢として後者が正しいとした。

NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」に成重登場!!

ページトップへ戻る