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1.本多作左衛門重次 亨禄3年(1530)、上和田城のすぐ南、宮地(現在岡崎市宮地町)に生まれた。幼名を八蔵、のち作十郎、作左衛門と称し、7歳の時から松平清康に仕えた。以降広忠・家康と三代にわたって歴仕する。 永禄元年(1558)、家康17歳の寺部城攻めの時に、弟重玄とともに先鋒をつとめ重玄は戦死した。 永禄6年(1563)、三河一向一揆の際には、門徒側につくが改宗して家康方につき上和田の塞を攻撃し戦功を上げ(注1)、三河「投(名栗・なぐり)」(根石町)の地に知行を与えられた。また、大平(岡崎市大平町)に城があった。(注2) 三河平定後の永禄8年(1565)3月、天野康景、高力清長とともに最初の「三河三奉行」に任ぜられ民政を掌る。作左衛門は生まれつき勇猛果敢、剛毅にして正直であった。その勤めぶりを、人々は「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎平衛」と謡い評した。 作左衛門の戦いぶりを最も典型的に示すものとして、元亀3年(1572)、三方ヶ原の戦いで、3万の武田軍によって徳川軍は左翼を破られ中央を崩され総崩れとなり、作左衛門は身に数ヶ所の傷を受け身動きできないほどであったが、主君家康が死にもの狂いで退却するのを見ると、最後の力を振り絞って敵を倒し、騎馬一頭を奪い家康の後を追い、家康にふりかかる敵を倒しながら城に着き、家康の命を救ったことがある。また、高天神の戦い、長篠の戦い、蟹江城攻略でもそれぞれ多くの首を挙げた。 天正3年(1575)長篠の合戦の折、陣中から妻あてに書いた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」(注3)は簡潔明瞭な手紙として有名。(妻は鳥居伊賀守忠吉の女で一男四女あり) 作左衛門の気性もさることながら、この様なずば抜けた戦いぶりから、人々は「鬼作左」、「鬼殿」と呼ぶようになった。一軍の将として武功を重ねるとともに、兵糧の備蓄、新領駿河国の政務(注4)や、家康出陣中の守城役などに能力を発揮した。 天正7年(1579)8月10日家康の嫡男で岡崎城主・徳川信康が家康の命により遠州堀江城に移された後、13日には作左衛門が城代に任じられた。9月15日に二股城に移されていた信康が切腹後、石川数正が城代として岡崎城に入ったが、数正は6年後の天正13年(1585)突如として岡崎を出奔し豊臣秀吉の家臣となった。この後を受けて、作左衛門が天正14年(1586)から同18年までの5年間城代を務めた。 小牧・長久手の戦の後、天正12年(1584)我が子の仙千代が於義丸(羽柴(結城)秀康)に伴って人質のようになった時、巧みに秀吉を欺き、仙千代を京都から呼び戻した。 天正18年(1590)3月19日太閤秀吉が小田原攻めの途中、駿府城内で秀吉,西方武将の面前で家康を諫言。小田原攻めの後、8月19日秀吉が駿府城で今宵一夜宿陣のため加藤遠江守を通じて三度呼んでも応じなかった。更に岡崎城見参御免の事件などのため秀吉の激怒をかったと言われている。 家康に作左衛門殺害の命があったが、家康は作左衛門を隠して病死したと報告し、上総国古井戸に閑居とした。家康は秀吉に遠慮して作左衛門に与えた知行は僅か三千石だったが、作左衛門は家康には一言も不平を言わなかった。 のち下房国相馬郡井野(現:茨城県取手市井野)に移り慶長元年(1596)7月16日、68歳で世を去った。法名は高分(あるいは浄運)、葬地は井野青柳村の本願寺。(注5) 自分のことを捨て、ひたすら君主家康のために尽くした作左衛門を当時の人々は三河武士の手本としてほめたたえた。 また家康も作左衛門の功を忘れはせず、関ヶ原の戦(1600)に勝ち、自分が天下人となった時、作左衛門の子本多成重(仙千代)を越前丸岡城主として四万石(注6)を与えた。
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