(1)助時系
(直系)
松平氏との関係は、助時が松平泰親に仕えたことの始まる。
松平信光の安城奪取や親忠の井田合戦に戦功あり、子助豊は長親〜清康に歴仕して今川勢との戦いに奮戦、その子忠豊は清康に仕えて品野・岩崎・宇利の戦いで活躍したが、天文15年(1546)9月20日の安城合戦に広忠の身代わりで討死し、その子忠高も同18年3月19日の安城合戦で戦死した。
忠豊・忠高の代は岩津城の南方2kmの蔵前に居住しいた。
忠高の子忠勝は徳川四天王の一人で生涯で57回の合戦に出陣し、一度も負傷しなかったといわれている。
忠勝の代に岡崎城東方の洞(ほら)へ移住したという。
「三河国二葉松」には洞に忠勝の屋敷、欠に忠高、弟忠真の城があったとしている。
忠勝は天正18年(1590)上総大多喜(10万石)に入り、のち伊勢桑名・播磨姫路(忠政)・大和郡山(政勝)・陸奥福島(忠国)・越後村上(忠孝)・三河刈屋(忠良)・下総古河(忠敞)・石見浜田(忠敞)に移封、明和6年(1769)忠肅が岡崎に入る。
その後明治維新までの約100年間、六代が岡崎藩主であった。
明治38年建立の「本多作左衛門重次誕生の地碑」は忠敬の書による。
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