目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




HOME(a)本多氏一族の系譜>(1)助時系
(a)本多氏一族の系譜

(0)始祖
 (1)助時系(直系) (2)正時系(伊奈本多) (3)正明系 (4)正経系(本多豊後守家)
(1)助時系 (直系)

 松平氏との関係は、助時が松平泰親に仕えたことの始まる。
松平信光の安城奪取や親忠の井田合戦に戦功あり、子
助豊は長親〜清康に歴仕して今川勢との戦いに奮戦、その子忠豊は清康に仕えて品野・岩崎・宇利の戦いで活躍したが、天文15年(1546)9月20日の安城合戦に広忠の身代わりで討死し、その子忠高も同18年3月19日の安城合戦で戦死した。
忠豊・忠高
の代は岩津城の南方2kmの蔵前に居住しいた。

 忠高の子忠勝は徳川四天王の一人で生涯で57回の合戦に出陣し、一度も負傷しなかったといわれている。
忠勝の代に岡崎城東方の洞(ほら)へ移住したという。
「三河国二葉松」には洞に
忠勝の屋敷、欠に忠高忠真の城があったとしている。

 忠勝は天正18年(1590)上総大多喜(10万石)に入り、のち伊勢桑名・播磨姫路(忠政)・大和郡山(政勝)・陸奥福島(忠国)・越後村上(忠孝)・三河刈屋(忠良)・下総古河(忠敞)・石見浜田(忠敞)に移封、明和6年(1769)忠肅が岡崎に入る。

 その後明治維新までの約100年間、六代が岡崎藩主であった。

 明治38年建立の「本多作左衛門重次誕生の地碑」は忠敬の書による。

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