目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




HOME>(d)歴代岡崎城主

(d)歴代岡崎城主

城主名

在任期間

備考

 
西郷 稠頼

亨徳元-
(1452- )

明大寺に築城

岡崎城の起源は15世紀前半まで溯る。明大寺の地に西郷稠頼によって築城されたのがその始まりである。

その後、亨禄3年3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。

天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。家康は6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。

元亀元年(1579)、家康は本拠を遠州浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1570)に信康が自刃した後は、重臣の石川数正、ついで本多重次を城主とした。
天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。

江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となった。石高こそ五万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りにしたと伝えられる。

西郷 頼嗣

   

(二代略)

   

西郷(松平)
信貞

   

松平 清康

大永4-享禄3
(1524-1535)

1530 現在地に移す

松平 広忠

享禄3-18
(1535-1549)

1542 家康誕生

(今川氏城代)

   

徳川 家康

永禄3-元亀元
(1560-1570)

遠江浜松へ

松平 信康

元亀元-天正7
(1570-1579)

 

(徳川氏城代)
石川 数正

天正7-13
(1579-1585)

 

((徳川氏城代)
本多 重次

天正14-18
(1586-1690)

 

田中 吉政

天正18-慶長5
(1590-1600)

天正18:五万七千四百石
文禄4:八万五千七百石余
慶長元:十万石
慶長5:筑後柳川へ

本多 康重

慶長6-16
(1601-1611)

上野白井から 初代岡崎藩主。五万石

本多 康紀

慶長16-元和9
(1611-1623)

2代岡崎藩主 1617 天守閣完成

本多 忠利

元和9-正保2
(1623-1645)

3代岡崎藩主。五万一千五百石

本多 利長

正保2
(1645)

4代岡崎藩主 遠江横須賀へ

水野 忠善

正保2-寛文16
(1645-1676)

五万石

水野 忠春

寛文16-元禄5
(1676-1692)

 

水野 忠盈

元禄5-12
(1692-1699)

 

水野 忠之

元禄12-正徳20
(1699-1730)

 

水野 忠輝

正徳20-元文2
(1730-1737)

 

水野 忠辰

元文2-宝暦2
(1737-1752)

 

水野 忠任

宝暦2-12
(1752-1762)

肥後唐津へ

松平 康福

宝暦12-19
(1762-1769)

下総古河から 。五万四百石余
石見浜田へ

本多 忠肅

宝暦19-安永6
(1769-1777)

石見浜田から。五万石

本多 忠典

安永6-寛政2
(1777-1790)

 

本多 忠顕

寛政2-文政4
(1790-1821)

 

本多 忠孝

文政4-天保6
(1821-1835)

 

本多 忠民

天保6-明治2
(1835-1869)

 

本多 忠直

明治2-4
(1869-1871)

 

廃藩置県

明治4 (1871)

 
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