巻
あらすじ(ブックカバー背面より)
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章
(登場しない章
は省略)
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本
多
重
次
(作左衛門) |
本
多
成
重
(お仙) |
備 考 |
11.竜虎の巻
秀吉は、家康に臣礼をとらせて天下統一を呼号するため、佐治日向守秀正の内室になっている妹朝日姫を離別させて本妻のいない家康に嫁がせようとする。朝日姫の悲嘆と秀正の憤死・・・。が、間に立った石川数正の身を捨てての奔走によって縁組は成立し、秀吉と家康との和解がようやく実現の緒に就いた。 |
誤解の海 |
77 |
17 |
於義丸に伴い仙千代も秀吉の人質に |
初 恋 |
1 |
9 |
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政 略 |
3 |
2 |
天正13年 |
荒波の城 |
45 |
1 |
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抵 抗 |
4 |
2 |
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大 患 |
34 |
7 |
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虚々実々 |
21 |
4 |
石川数正出奔 |
犠牲の風 |
45 |
0 |
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地鳴りの春 |
33 |
0 |
作左衛門,岡崎城代に。天正14年 |
12.華厳の巻
家康は秀吉の妹朝日姫を正妻にすると、秀吉の生母大政所と対面した後、後事を本多作左に託し、総勢2万の大軍を率い、関白の義弟として上洛、ついに両雄はかたく提携する。浜松に戻った家康が、待望の駿府城に入って東国経営に乗出す時、秀吉は後顧の憂いなく、勇躍して九州征伐に向かう。 |
三河の計算 |
52 |
0 |
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反 抗 |
2 |
0 |
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花に唾する |
45 |
0 |
大政所岡崎へ。作左が脅す |
両雄対面 |
5 |
0 |
家康上洛 |
小姓の眼 |
7 |
0 |
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観察者 |
8 |
0 |
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無心有心 |
47 |
0 |
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13.佗茶の巻
九州征伐に成功した秀吉は、小田原の北条氏攻略に着手する直前、家康に関東への移封を言い渡し,縁戚にあたる北条討伐の先鋒を命ずる。天昇18年7月、小田原は降伏、翌月、家康は江戸へ。その頃、秀吉の傲慢さに怒りを燃やした千利休は、茶道のため,おのれを曲げず秀吉と戦う決意を固める。 |
開戦前夜 |
2 |
0 |
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小田原進撃 |
68 |
0 |
大久保彦左衛門に反骨・武骨を伝授 |
朝日のままに |
1 |
0 |
天正18年 |
生れ来し塔 |
75 |
2 |
作左、岡崎城代を辞し駿府へ。秀吉が駿府城入城の際、家康を罵る |
東への星 |
3 |
0 |
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常勝関白 |
8 |
0 |
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14.明星瞬くの巻
奥州の伊達正宗と蒲生氏郷の不和により秀吉と利休の仲は更に険悪になる。弟秀長を喪った秀吉は、ついに利休を聚楽第から追放。奥州問題の処理に成功した家康は江戸に戻ってその経営に専念する。関白職を甥の秀次に譲った秀吉は、肥前名護屋から朝鮮へ出兵。が、水軍は敗れて,戦勢は次第に不利となった。 |
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0 |
0 |
朝鮮出兵、〜文禄2年 |
15.難波の夢の巻
文碌4年7月、名護屋から帰った秀吉は、粗暴の振舞い多く、「殺生関白」と怖れられていた秀次を高野山に自刃させた。上洛した家康が、、秀頼への忠誠の誓紙をとられたのは、その翌月、三条河原で秀次の一族ことごとくが斬殺された時である。慶長3年8月、秀吉は、秀頼の前途を案じつつ「浪花のことは夢の又夢」の辞世をのこして永眠した。 |
歴史は移る |
1 |
0 |
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破局 |
9 |
0 |
作左、上総の小磯で死す |
16.日蝕月蝕の巻
豊太閤の死後、石田三成は家康に対抗しようとあせった。秀吉に後事を託された家康が、朝鮮からの撤兵を無事に終えるころ、諸将の間に家康に異心ありの噂がひろがり、派閥抗争が激化する。やがて、武断派の加藤清正らにうとまれた文治派の三成はなぜか家康のもとに難を避けてきた・・・。 |
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0 |
0 |
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17.軍荼利の巻
石田三成の陰謀を粉砕しようと決意した家康は、大坂城内に住む秀頼に拝謁の後、そのまま城内にとどまって天下の政務を見ると宣言し、群党乱立の政情をおさめるため、上杉景勝の討伐のおもむく。が、三成が毛利、宇喜多を語らって挙兵し、伏見城を攻略したとの報に接すると、予定のごとく直ちに軍を返した。 |
機は熟す |
1 |
0 |
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伏見攻撃 |
1 |
0 |
伏見城に篭った鳥居元忠が自害前に本多作左衛門を回顧 |
18.関が原の巻
慶長5年9月15日、家康の軍勢7万5千と三成の同盟軍10万8千の大軍は、ついに関が原で激突、未明から申の下刻にかけて血闘の結果、東軍の勝利に終わり、三成は京の七条河原で斬られた。大坂城西の丸に入った家康は、諸侯に厳しく賞罰を行い、天下人を目前にした。 |
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0 |
0 |
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19.泰平胎動の巻
慶長7年8月、家康の生母於大の方が永眠。翌年2月征夷大将軍に補せられた家康は、徳川・豊臣両家和合のため、孫の千姫を秀頼の妻として大坂城に送ったが大坂方の反徳川の動きは依然活発だった。10月、家康は江戸に幕府を開くべく伏見を発った。翌る慶長9年7月、秀忠に男子出生という知らせが届く・・・。 |
江戸幕府 |
1 |
0 |
家康は江戸城の改修を熱く提案する藤堂高虎に、かつての本多作左衛門を思い出す |
20.江戸・大坂の巻
家康は初孫に自分の幼名竹千代を贈って徳川を磐石のものにしようとしたが、竹千代の誕生は大坂城の淀君と秀頼に大きな不安を抱かせた。亡き豊太閤の七回忌に当り、家康は平和の到来を国の内外に知らせるため、豊国祭を盛大に挙行する。慶長10年4月、家康は征夷大将軍の職を秀忠に譲って大御所となった。 |
身勝手世勝手 |
1 |
0 |
豊国祭で一部の旗本が暴れようとしていることを、「作左衛門以来の秀吉嫌いは、まだ旗本の中には根強く巣食っている」と・・・ |