目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




 岡崎市と丸岡町 

HOME>6.「徳川家康」の中の本多父子

6.山岡荘八著「徳川家康」の中の本多父子

講談社文庫「徳川家康」山岡荘八/講談社(全26巻)における本多父子(名前)の登場回数を下に示します。
物語の中で本多重次・成重父子は、徳川家康に大きな影響を与え、家康の天下統一に大きな役割を果たした重要な人物として描かれています。

あらすじ(ブックカバー背面より)

(登場しない章
は省略)





(作左衛門)




(お仙)
備  考
1.出生乱離の巻
竹千代(家康)が生まれた年、信玄は22歳、謙信は13歳、信長は9歳であった。動乱期の英傑が天下制覇の夢を抱くさなかの誕生。それは弱小松平党にとっては希望の星であった。

0 0 天文10年〜14年
2.獅子の座の巻
6歳の竹千代は今川家への人質として送られる途中、織田方の手中に落ちる。父広忠が非業の死を遂げて岡崎城は今川に明渡され、竹千代は今川の手にある織田信広との人質交換で駿府に送られる。一方、斉藤道三の娘を娶った信長は暗禺をよそおい、四面楚歌のなかで、一人時期の到来を待っている・・・。

0 0 天文16年〜20年
3.朝露の巻
今川家の人質となった竹千代は、14歳で元服して松平次郎三郎元信と名のり、翌年義元の姪鶴姫と結婚し、のち元康と改名。永禄3年、川中島に対峙した上杉と武田の勝負が膠着状態となったとき、上洛の行動を開始した今川義元は、信長の奇襲戦法に、田楽狭間の露と消え,元康の運命も大きく転回する。

0 0 〜永禄3年
4.葦かびの巻
今川義元の死により開放された元康は、永禄5年清洲城に信長を訪ねて和睦し、駿府から妻子を迎え、家康と改名。永禄11年、信長は前将軍足利義輝の弟義昭を征夷大将軍にもりたてて、その実権を握る。時に35歳。27歳の家康は松平の姓を一門に残して、姓を徳川と称し、東海の一角に勢力を伸ばす。
春月の風 31 0 お万を築山御前の虐待から救う。
逃げ水 62 0 家康へ側女について諫言する。
双鶴図 1 0 永禄10年、徳姫お輿入れ
女鷲の城 49 0 曳馬野城攻め
梅の新城 47 0 お愛を家康の側女に薦める
5.うず潮の巻
天下布武をめざす猛将信長と呼応して、輝かしい明日を開くか、男の意地を貫き倒れるか、家康にとって三方ヶ原の合戦は,その生涯を決する運命の岐路だった。上洛戦の火蓋を切った名将武田信玄を迎え撃つ若き家康−その乾坤一躑の雄図の前に,妻築山殿と家臣大賀弥四郎の思いがけぬ裏切りが待つ・・・。
見えざる糸 11 0
人生岐路 19 0 元亀3年。三方ヶ原の戦前夜
底を貫く 3 0 三方ヶ原の敗戦
嵐気のみだれ 1 0
破滅 28 0 信康初陣にあたり浜松から岡崎城の留守居に
6.燃える土の巻
信玄陣没の風聞に、家康は武田勝頼の機先を制して長篠城を手に収める。同じ日、信長は越前の亥山城で朝倉義景の首級を受取った。家康の二男於義丸(結城秀康)の誕生をめぐって、ついに大地は燃えあがる。築山殿の妬心の焔、お万の方とお愛の方の母性の火−更に信長の妹お市の方の稼した小谷の城も炎上した。
女刺客 44 0 築山御前の命を受けお万方を刺しに来た使を見破る
火柱 1 0
二男誕生 90 1 於義丸が誕生し家康に会わせようとする
双つの鏡 4 0
肥のありか 7 0 天正2年。高天神城の戦
露見 3 0 大賀弥四郎の陰謀露見
裁く者 1 0
7.颶風の巻
武田勢の包囲下に篭城する奥平九八郎の苦衷と、三河武士のど根性を示す鳥居強右衛門の壮烈な最後・・・。攻防の限りを尽くした長篠の役で、世に聞こえた武田の騎馬隊も、織田、徳川の銃火の前に潰滅。安土城を築いた信長は、家康に、嫡子信康の処分を命ずる。武田勝頼はこれを機に決戦を挑むが、空しく天目山の露と消える。
再び雌伏 1 0
落雷 21 0 信長から信康、築山御前に切腹の命
鞭の足音 19 0 家康とともに信康追放のため岡崎へ
追放 10 0 信康追放により作左が岡崎城の留守居に
三河の意地 1 0 天正10年。高天神城の奪回戦で18の首を上げる
8.心火の巻
宿敵武田勝頼を破った信長は、中国攻略中の秀吉から援軍を求められ、北条氏を押さえるため、家康を安土城に招く。その接待役明智光秀は信長の忌避に触れ坂本城へ引き揚げる。信長との対面を終えた家康は、堺で本能寺の変を知るや、急遽三河に脱出。信長歿後の20日間は、家康にも重大な転機であった。
葵の陣立 6 0 天王山の戦いの後、熱田から陣払いすると言う家康に安土出兵を主張
9.碧雲の巻
光秀を討って主君の仇を報じた秀吉はその手柄を盾として、天下取りへの活動を開始した。最大の敵・柴田勝家を倒すにおよんで、もはや天下に敵なし、と見えた。しかし、武田の旧臣をことごとく随身させて、着々と勢力を伸ばしつつある男がいた。それは、むろん家康。両雄の確執は日に日につのるばかり。
放鷹談義 2 0 大久保彦左衛門が乱暴な言葉遣いから、作左衛門の後継ぎと噂される
秀吉への使者の候補としてあげられるが、かえって事を壊す恐れが有るとされる
10.無相門の巻
大坂城を築城して天下に覇を唱えようとする秀吉に対して織田信雄が起つと、家康は義によって織田方に味方して小牧長久手に戦うが、双方とも、相手を滅ぼすことの不利を悟り,和を講じる。が、秀吉からの、家康の二男於義丸(結城秀康)の人質要求が、勝ち戦だったと思い込んでいる家康の家臣達を怒らせた
次に吹く風 5 0
硬骨軟骨 70 8
三河の使者 5 0
防風林 32 0 天正12年
出 陣 1 0 小牧の役
勝入戦法 2 0 長久手の役
和平の供物 10 2

ページトップへ戻る

あらすじ(ブックカバー背面より)

(登場しない章
は省略)





(作左衛門)




(お仙)
備  考
11.竜虎の巻
秀吉は、家康に臣礼をとらせて天下統一を呼号するため、佐治日向守秀正の内室になっている妹朝日姫を離別させて本妻のいない家康に嫁がせようとする。朝日姫の悲嘆と秀正の憤死・・・。が、間に立った石川数正の身を捨てての奔走によって縁組は成立し、秀吉と家康との和解がようやく実現の緒に就いた。
誤解の海 77 17 於義丸に伴い仙千代も秀吉の人質に
初 恋 1 9
政 略 3 2 天正13年
荒波の城 45 1
抵 抗 4 2
大 患 34 7
虚々実々 21 4 石川数正出奔
犠牲の風 45 0
地鳴りの春 33 0 作左衛門,岡崎城代に。天正14年
12.華厳の巻
家康は秀吉の妹朝日姫を正妻にすると、秀吉の生母大政所と対面した後、後事を本多作左に託し、総勢2万の大軍を率い、関白の義弟として上洛、ついに両雄はかたく提携する。浜松に戻った家康が、待望の駿府城に入って東国経営に乗出す時、秀吉は後顧の憂いなく、勇躍して九州征伐に向かう。
三河の計算 52 0
反 抗 2 0
花に唾する 45 0 大政所岡崎へ。作左が脅す
両雄対面 5 0 家康上洛
小姓の眼 7 0
観察者 8 0
無心有心 47 0
13.佗茶の巻
九州征伐に成功した秀吉は、小田原の北条氏攻略に着手する直前、家康に関東への移封を言い渡し,縁戚にあたる北条討伐の先鋒を命ずる。天昇18年7月、小田原は降伏、翌月、家康は江戸へ。その頃、秀吉の傲慢さに怒りを燃やした千利休は、茶道のため,おのれを曲げず秀吉と戦う決意を固める。
開戦前夜 2 0
小田原進撃 68 0 大久保彦左衛門に反骨・武骨を伝授
朝日のままに 1 0 天正18年
生れ来し塔 75 2 作左、岡崎城代を辞し駿府へ。秀吉が駿府城入城の際、家康を罵る
東への星 3 0
常勝関白 8 0
14.明星瞬くの巻
奥州の伊達正宗と蒲生氏郷の不和により秀吉と利休の仲は更に険悪になる。弟秀長を喪った秀吉は、ついに利休を聚楽第から追放。奥州問題の処理に成功した家康は江戸に戻ってその経営に専念する。関白職を甥の秀次に譲った秀吉は、肥前名護屋から朝鮮へ出兵。が、水軍は敗れて,戦勢は次第に不利となった。

0 0 朝鮮出兵、〜文禄2年
15.難波の夢の巻
文碌4年7月、名護屋から帰った秀吉は、粗暴の振舞い多く、「殺生関白」と怖れられていた秀次を高野山に自刃させた。上洛した家康が、、秀頼への忠誠の誓紙をとられたのは、その翌月、三条河原で秀次の一族ことごとくが斬殺された時である。慶長3年8月、秀吉は、秀頼の前途を案じつつ「浪花のことは夢の又夢」の辞世をのこして永眠した。
歴史は移る 1 0
破局 9 0 作左、上総の小磯で死す
16.日蝕月蝕の巻
豊太閤の死後、石田三成は家康に対抗しようとあせった。秀吉に後事を託された家康が、朝鮮からの撤兵を無事に終えるころ、諸将の間に家康に異心ありの噂がひろがり、派閥抗争が激化する。やがて、武断派の加藤清正らにうとまれた文治派の三成はなぜか家康のもとに難を避けてきた・・・。

0 0
17.軍荼利の巻
石田三成の陰謀を粉砕しようと決意した家康は、大坂城内に住む秀頼に拝謁の後、そのまま城内にとどまって天下の政務を見ると宣言し、群党乱立の政情をおさめるため、上杉景勝の討伐のおもむく。が、三成が毛利、宇喜多を語らって挙兵し、伏見城を攻略したとの報に接すると、予定のごとく直ちに軍を返した
機は熟す 1 0
伏見攻撃 1 0 伏見城に篭った鳥居元忠が自害前に本多作左衛門を回顧
18.関が原の巻
慶長5年9月15日、家康の軍勢7万5千と三成の同盟軍10万8千の大軍は、ついに関が原で激突、未明から申の下刻にかけて血闘の結果、東軍の勝利に終わり、三成は京の七条河原で斬られた。大坂城西の丸に入った家康は、諸侯に厳しく賞罰を行い、天下人を目前にした。

0 0
19.泰平胎動の巻
慶長7年8月、家康の生母於大の方が永眠。翌年2月征夷大将軍に補せられた家康は、徳川・豊臣両家和合のため、孫の千姫を秀頼の妻として大坂城に送ったが大坂方の反徳川の動きは依然活発だった。10月、家康は江戸に幕府を開くべく伏見を発った。翌る慶長9年7月、秀忠に男子出生という知らせが届く・・・。
江戸幕府 1 0 家康は江戸城の改修を熱く提案する藤堂高虎に、かつての本多作左衛門を思い出す
20.江戸・大坂の巻
家康は初孫に自分の幼名竹千代を贈って徳川を磐石のものにしようとしたが、竹千代の誕生は大坂城の淀君と秀頼に大きな不安を抱かせた。亡き豊太閤の七回忌に当り、家康は平和の到来を国の内外に知らせるため、豊国祭を盛大に挙行する。慶長10年4月、家康は征夷大将軍の職を秀忠に譲って大御所となった。
身勝手世勝手 1 0 豊国祭で一部の旗本が暴れようとしていることを、「作左衛門以来の秀吉嫌いは、まだ旗本の中には根強く巣食っている」と・・・

ページトップへ戻る

あらすじ(ブックカバー背面より)

(登場しない章
は省略)





(作左衛門)




(お仙)
備  考
21.春雷遠雷の巻
家康が英人アダムスを顧問格にして海外貿易に大きな情熱を燃やすと、旧教徒の南蛮人ソテロは、アダムスを通じて欧州の新勢力が進出するのを拒もうとし、全国の切支丹大名の間に反徳川の画策がめぐらされる。一方、総代官大久保長安は、徳川家と伊達政宗を手玉にとって世界貿易をという野心にとりつかれる。

0 0
22.百雷落つるの巻
大久保長安の”貿易日本”建設の野心は、松平忠輝と伊達政宗の心を大きく揺さぶった。しかし野心は時として無謀を呼ぶ。はたして長安の動きは、旧教宣教師や関ヶ原牢人の、徳川覆滅の夢を煽る導火線となった。大坂へ大坂へ・・・・と、諸国の牢人の激情が集約されてゆく。”大坂の陣”はすでにその兆しを見せた!

0 0
23.蕭風城の巻
故太閤の17回忌のため方広寺を再建した大坂方に対し、家康は鐘の銘文の中の「国家安康、君臣豊楽」の句を取り上げ、家康の天下を呪うものとして、開眼供養の執行を中止させる。真意は豊臣家存続を望む家康だが、秀頼母子が在る限り、切支丹信徒や不平分子が、秀頼を擁して争乱を招く恐れがあるので、穏便に大坂城に明け渡せとの謎だった。

0 0
24.戦争と平和の巻
慶長19年10月、大坂冬の陣はじまる。大坂方は河内の出口村の堤を決壊させ、枚方付近の道路を妨害した。家康は二条城を動かず、松平乗寿と福島忠勝にその修理を命じ、先頭開始は11月6日夜。優勢を誇る関東方の大砲の威嚇射撃で一旦和議が成るが、それもつかの間、戦意を喪した秀頼に拘わりなく、時の勢いは夏の陣へ・・・。

0 0
25.孤城落月の巻
大坂夏の陣の火ぶたは慶長20年(元和元年)4月、切って落とされた。濠を埋められた大坂方は城外に出て徳川勢に立ち向かったが、名ある猛将も相次いで倒れ、5月7日には家康の心胆を寒からしめた真田幸村の軍勢も玉砕・・・。翌8日秀頼と淀君は城中の籾蔵で自害し、豊臣家はついに滅亡した。

0 0 夏の陣における越前候松平忠直の激闘ぶりは描かれているが、本多成重については記載なし
26.立命往生の巻
豊臣家滅亡後の家康に残された仕事は幕府永続の基礎固め、すなわち確乎とした泰平の世づくりであった。「人間はみな永遠に続く大樹の枝葉なのだ」という万民の愛と安らぎをめざす世を! その理想を果たし、巨樹はついに波乱にみちた75年の生涯を終える。

0 0

「本多作左衛門の晩年」の著者、本田捷彦さんによれば、本多作左衛門が登場する作品にはこの「徳川家康」の他にも、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」、大島昌宏の「結城秀康」、戸部新十郎の「戦国史譚・徳川家康」など資料となるものがたくさんあるそうです。

ページトップへ戻る