(4)正経系
(本多豊後守家)
助時・正時系の二系のほかに、助政の子定正から発する系統がある。
定正の孫正経系の秀清は長親に仕えて明応6年碧海郡土井を恩給され、同7年没。
その子清重は永正13年(1516)年没して上宮寺末の坂崎円行寺に葬られた。
その子信重は信忠・清康に仕えて土井城を築いたが、亨禄2年(1529)の吉田攻めで討死して円行寺に葬られた。
その子広孝は大永7年(1527)土井城に生まれて広忠・家康に仕えた。これが本多豊後守家である。
天文23年(1554)土井城で生まれた康重は父広孝とともに掛川・姉川・三方ヶ原・長篠・高天神・小牧長久手・小田原の数多くの戦いに参加し軍功をたてた。
天正18年に家督を相続して上野国白井二万石を領し、文禄4年(1595)に従五位下豊後守に叙任された。
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では秀忠に同伴している。
慶長6年2月に白井を改め岡崎五万石を拝領し初代藩主となり、同16年3月22日に58歳で岡崎で没した。
二代目岡崎藩主伊勢守康紀は慶長6年には従五位下伊勢守に叙任されており、同16年に家督を継いで豊後守に改めた。
大坂冬・夏両陣で戦功をたて、徳川将軍家の信頼は特に厚かった。
譜代大名の上席となっており、元和9年(1623)の三代将軍家光上洛に騎士侍として同伴している。
元和3年に岡崎城に天守閣を完成させたのは康紀の代であった。
元和9年9月25日に45歳で岡崎で没している。
三代目藩主伊勢守忠利は、慶長18年に従五位下伊勢守に叙任され、父康紀とともに元和元年の大坂夏の陣に参戦し、元和9年に五万石の家督を継いだ。
寛永11年(1634)に家光上洛の宿所となった関係で五千石を加増され、岡崎五万五千石となった。
正保2年(1645)に遠江国横須賀に転封を命じられたが、転封直前の正保2年2月10日に46歳で江戸で病死した。
四代目藩主は忠利六男の利長が家督を継ぐことになるが、庶兄の内膳助久に4560石、弟の式部利朗に2000石を分与したことで、利長は岡崎五万石となった。
正保2年6月27日に利長は遠江横須賀五万石に転封となるが、天和2年(1682)悪政により出羽村山郡(1万石)に移される。
その子助芳は元禄12年(1699)越後糸魚川に移り、享保2年(1717)信濃飯山(2万石)に移る。
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