目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




 岡崎市と丸岡町 

HOME>4.本多父子の年譜

4.本多父子の年譜

和暦 西暦 <父> 本多作左衛門重次 <子> 本多飛騨守成重 出来事
出来事 出来事
亨禄
2
1529 1 岡崎市宮地に生まれる(注1)幼名は八蔵      
天文
4
1535 7 松平清康に仕える 12月.清康没
天文
11
1543 14       12月.竹千代(家康)岡崎城で誕生
天文
16
1547 19       8月.竹千代(家康)織田氏の人質に
天文
18
1549 21       3月.広忠没
11月.竹千代(家康)今川氏の人質に
永禄
1558 30 寺部城攻めで先鋒、弟重玄戦死      
永禄
3
1560 32       5月.桶狭間の戦
家康岡崎に帰還
永禄
6
1563 35 一向一揆の戦功により投に知行     三河一向一揆
永禄
7
1564 36 今川氏真との合戦で奮戦。家康から言葉を賜る      
永禄
8
1565 37 3/7三河三奉行の一人に任ぜられる      
永禄
9
1566 38 家康から根石原新市の仕置を命じられる      
永禄
10
1567 39 浜松城御留守居衆となる
元亀
1570 42       6月.姉川の戦い
元亀
3
1572 44 嫡男「仙千代」誕生(注2)
12月.三方ヶ原から撤退時にしんがりを務め家康を守る
1 浜松で誕生(注2) 12月.三方ヶ原の戦
天正
2
1574 46 家康の二男於義丸(秀康)が誕生し、養育することに(注6) 3    
天正
3
1575 47 5月.長篠の戦場から「一筆啓上」を送る(注7)。戦いで負傷し右目失明
家康の背中に疔ができた時、治療を諫言し快癒
4   5月.長篠の戦
天正
7
1579 51 8/13岡崎城代に 8   9/15信康切腹
天正
9
1581 53 高天神城の戦いで戦功をあげる
天正
10
1582 54 駿河奉行に任ぜられる。
「本能寺の変」後、家康と共に「伊賀越え」
11   6月.本能寺の変
天正
12
1584 56 長久手の戦いで星崎城を守り、蟹江城攻めの先鋒をつとめた  13 於義丸(秀康)の大坂人質に隋従 4月.小牧・長久手の戦
天正
13
1585 57 12/初,石川数正出奔後岡崎城代に 14   11/13石川数正出奔
天正
14
1586 58 人質大政所を虐待 15   家康上洛
天正
16
1588 60 寺社改め証文「五十歩之一手形」発給 17    
天正
18
1590 62 3月.岡崎城見参御免の事件
3/19秀吉,西方武将の面前で家康を諫言
8/19駿府城今宵一夜宿陣お断り事件

上総小井戸へ三千石で移封、閑居。その後下総相馬郡(取手)に変更
9/3采地の藺沼に向かうため江戸を出発
19 正月土岐定政の娘・直と婚儀 
小田原で徳川軍後備を務める
9月.父とともに藺沼(取手)入り
7月.小田原の戦
8/1.家康江戸入国
8/5.秀康結城氏の養子に
慶長
1596 68 7/16下総国相馬郡井野で没(注4) 25    
慶長
5
1600     29   9月.関ケ原の戦
慶長
7
1602     31 近江蒲生郡に二千石 2月.東本願寺創建
慶長
8
1603     32   2月.江戸幕府開く
慶長
18
1613     42 越前府中藩松平忠直の付家老となり、四万三千三百石余で丸岡城主  
慶長
19
1614     43 12/4冬の陣で松平忠直の先鋒として天王寺口で奮戦 12月.大坂冬の陣
元和
1615     44 5/7夏の陣で城内一番攻め.従五位下飛騨守に叙任 5月.大坂夏の陣
元和
2
1616     45   4月.家康没
元和
9
1623     52 忠直失脚後、幕府に仕える 2月.松平忠直失脚
寛永
1624     53 丸岡藩初代藩主となり、六千三百石を加増  
正保
2
1645     74 5/19致任(注3)入道して土庵と号す  
正保
4
1647     76 6/23没  
注1:「戦国人名辞典」には1530-1596とある。誕生地は三河国額田郡太平村(現岡崎市大平町?)との説あり
注2:「戦国人名辞典」には1571-1645とある。
注3:「藩翻譜」には「成重が致任せし年、卒せし年、いまだ知らず」ながら系図には天保2年5月19日致任、同4年6月23日卒とあり、「戦国人名辞典」には正保2年5月19日隠居,6月23日76歳で没、「kmimuのホームページ」「日本歴史大辞典」には正保4年(1647)まで城主を務めたとある。
注4:「藩翻譜」に「一説に、慶長5年関が原合戦の頃まで存命にて、その時には江戸の留守たりしと云ふ。覚束なし。」ともある。
注5:「岡崎の歴史物語」「日本歴史大辞典」には四万石、「kmimuのホームページ」には四万三千石、「藩翻譜」には四万三千三百石余、「戦国人名辞典」には四万八千石とある。
注6:天正2年(1574)の於義丸が生誕して間もなくとすると、天正3年(1575)の長篠ノ合戦後とするがあるようです。
注7:「一筆啓上」を送った時期には諸説あります。
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