目  次
1.本多作左衛門重次
  
・エピソード
  
・誕生地の碑

2.本多成重(お仙)
  
・NHK大河ドラマ

3.本多父子の系譜

4.本多父子の年譜

5.あの日から今年は・・

6.小説「徳川家康」中の父子

7.本多父子の謎


   参考資料

 (a)「本多」人名辞典

 (b)本多一族の系譜

 
(c)歴代岡崎城主

 
(d)リンク・参考文献




 岡崎市と丸岡町 

HOME1.本多作左衛門重次>作左衛門のエピソード

作左衛門のエピソード

(1)家康の背中のおでき (2)大政所の世話役 (3)衆中にて家康を罵る

(1)家康の背中のおでき

小牧・長久手の戦いの翌年天正13年春、家康は体がどうもだるい。

一般人が春先になると、けだるくなるというようなそれとはわけが違う。こんなことは今まで無かった。

秀吉対策を練ろうとしても根が続かない。背中がおかしいと思って看させると、腫物ができていた。

つまらないものができたと半ば腹を立てているうちに、それがたちまち成長し、巨大化するにつれ痛みも激しくなる。

はまぐりの貝ではさんで膿を絞らせた。こじれたのかよけい根を大きくさせたようである。

痛みで意識がもうろうとなる。疲れきってウトウトしたかと思うと、とたんに激痛におそわれ、もうろうとしながら意識の世界へ引き戻される。

手の施しようも無く5日ほどたつうちに、すっかり衰えてしまった。体力の衰弱だけでなく、気力が無くなった。

小牧・長久手で、家康は秀吉の実力を直接知った。あれからというもの、武田信玄からうけた圧迫感にはおよばなかったが、「戦闘で勝って戦略で負けた」という思いがのしかかっていた。

(中略)

その精神のすきまを強烈な細菌が襲った感じで、あまりの痛さが、あの我慢強い家康という人間を変えた。

重臣たちが枕元に呼び集められた。

「わしは、もうだめだ。秀吉めは、着々と計画を進めるだろう。よく聞け。」

遺言である。まさか、と思い、しかし誰も分別がつかず、家康の口元をみいるだけであった。

「第一は、おまえ達がまとまって、崩れないことだ。第二は、北条を・・・・」

その時、「殿!、何を申されます。」と、大喝した者がいた。本多作左衛門重次である。

「わたくしも大変な腫物で苦しみましたが、糟屋長閑の治療で全快しました。ぜひ長閑をお召しください。治ります。あやつは治します。」

家康は医者が大嫌いだった。

「いや寿命だ。寿命だからしかたがない。わしにはそれがわかる。まず、わしの言うことを聞け。」

「いえ、ともかく一度手当てを−」

「いらぬ。」

「・・・・・・・」

重次は、口を家康の耳に押し付けるようにした。

「ききわけの無いお人だ。ならば、しかたありません。重なる合戦で、片目はつぶれ、指がもげ、びっこになりました。わたくしのような老いぼれはあとに残っても役に立ちません。一足先に行って、冥途の道掃除でもしていましょう。ごめん。」

この重次のことばで、家康は、戦場で死に、傷ついた者の痛みをふと感じ、自分を取り戻した。気力をなくしてしまったことが不思議なほどであったが、ここでそれを瞬間的に取り戻したことも、奇跡のようなものだった。

重次のことばを受止めたものは、やはり家康の根っからの、戦国武将の血であったのだろう。遺言を言うところまで追いつめられたと思い、ところが遺言はまだ具体的内容をもつまでに整ってなどいない。

団結しろ、背後の北条を敵にまわすなくらいは誰でも言う。その様な曖昧さの中に自分がいたことに、家康は驚いた。それを、重次の別な痛みが知覚させてくれた。

(わしに対策が立たなくて、他の者がどうして徳川を支えられるか。わしがいて、作左衛門のような家来がいて、はじめて可能ではないか。治療がたとえ効かなくてもやってみなくてはだめだ。)ついさっきまでの弱気が、うそのように思えた。

「長閑を呼べ。作左、もうよい。」

糟屋長閑の治療で家康は治った。本多重次がいなければ、家康はこの時死んでいた。

「小説 信長 秀吉 家康」より

新編 藩翰譜における同記述にリンク


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(2)大政所の世話役

小牧・長久手の戦の後、天正14年(1586)28日、織田信雄を仲介とした秀吉との講和が成立した。条件は、秀吉の異父妹、旭姫を家康の正妻として浜松に送るというものだった。

514日、家康は浜松城で旭姫との婚儀を行った。しかし、秀吉からの再三の上洛の要請には応えなかった。

秀吉はとうとう、実母の大政所を人質として送るから、その代わり、ぜひ上洛して欲しいと交渉した。これ以上の人質はない。ただし秀吉は、大政所には人質とは言わず、嫁にいった娘の旭姫に会いに行ってくれぬかと頼んだ。

家康はようやく秀吉の要請に応じて、1018日、大政所を岡崎で迎えた家康は、翌々日岡崎を出発して大坂に向かった。

岡崎城内。大政所は、きめられた屋敷でようやく息を抜き、明日は旭姫と会えることを思ってくつろいでいた。

侍女があわただしく入ってきた。

「申し上げます。」血相を変えていた。

「なにごとじゃ。」

「大政所様を焼き殺すつもりでございます!」

「え? ま、おちついて。」

「は、はい。男どもがさかんに薪を運んでいますので、しばらく様子をうかがっていますと、どうやら屋敷のぐるりに薪を積んでいるのでございます。

下男のひとりにわけを尋ねましたところ、もし大坂の家康殿に万一のことがあれば、すぐに火をかけよとのこと。本多重次殿の命令なのだそうでございます。

ふらちな。どういたしましょう。」

恐ろしさと腹立ちで、声がうわずっている。大政所も、今度の岡崎行きの意味については薄々察してはいたが、これほどとは思っていなかった。つばを呑み込んでから、

「あの作左衛門か。噂どおりの気ぐるいぞ。ともかくはよう関白殿へ知らせるのじゃ。」

本多作左衛門重次が大政所一行の世話役だった。

数日後、大政所はおそい朝食をすまし、女たちがまわりに集まっていた。明るい陽射しをうけた障子ごしに、庭からがらがら声が聞こえた。鬼作左である。

「歳をとると、どうも気が短くなって困る。殿のお帰りが遅いので、いてもたってもおられんわい。この手が、つい火を持って薪にいきそうで、いつまで我慢できるか、わしにもわからぬぞ。」

遠慮会釈ない独り言である。庭に面した南側を除いて、薪はぐるっと軒近くまで積み上げてあった。女たちは縮みあがった。

作左めが。きっとこらしめてやろうぞ。」

そう言って大政所は障子の方をにらめつけた。しかし気味の悪いのはどうしようもなく、また急使をたてた。手紙には、

「気を張りつめてはいるが、本多作左衛門のおかげで寿命も縮む思いだ。1日も早く事をすまし、年寄りを楽にして欲しい。」と書いた。

作左衛門のねらいは、この、大政所が秀吉をせつく手紙にあった。2度目の使いが出たという報告を受けて、彼はにやりと笑った。

「小説 信長 秀吉 家康」より

新編 藩翰譜における同記述にリンク


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(3)衆中にて家康を罵る

関白秀吉が小田原へ発向のとき、徳川家康は三州浜松城を明けわたして関白殿下を馳走せり。

軍旅の折りとは言いながら殿下初めての下向なれば饗応ひとかたならず城中に入ると賑々しく見えたり。

殿中には秀吉を上段に坐せしめ、少し下がりて家康は坐をしめ、上方の諸大名、関白の旗本威儀堂々と列座せり。

重次は城中に入りて見れば此処にも其処にも関白の軍勢の列み居たり、殿中にはまた馳走に奔走する人のみ重次には見るもの聞くもの苦々しく、つと大名の列座の間に来たり、かの末席より大声に「殿、殿、」と家康を呼び、「さてもさても殿は珍しき馬鹿をつくされ候ものかな、国持ちの大名が我が居城の本丸までも明けわたして一夜にても人に貸すと申すことや候、かようの御分別に候はば、一定、殿は我が女房をも人に貸し給うべし」と毒々しくぞ罵りける。

家康は、「何をたわけを申すぞ」と叱りしが、重次は委細かまわず傲然として立ち去りたり。

家康は列座の大名に向い、「只今のたわけの申すを御聞ありしならん。

今日の席に、あのようなる事を申し出し近頃是非に及ばず候。

あの男は本多作左衛門と申し、当家譜代の者にして、それがしが若年の昔より奉公つかまつり、武功もあまたありの者に候えども、気膸我儘の者にて人をば生きたる虫とも存ぜぬ生まれつきの者に候。

方々の御列座にてさえ只今のとおりに候えば、それがし一人のみの時をお察し下され。」と言われたり。

列座の人々は気の毒に思いけん。「かねて聞きおよびし本多氏とは、あの方にて候や。

いかにも正直一圖の士たる容貌なり。善き御家人御重宝の事に候。」と挨拶せしとぞ。

重次の人となりは斯くの如し。ある時旅より女房の方へ書状を送り

「一筆申す火の用心、おせん、やさすな、馬こやせ、かしこ」と書きし人なり。

おせんとは一子仙千代のことなりとぞ。

文勢直截にして百丈の瀑布に対するの観あり。重次という魁偉の好漢が字句の間に彷彿として隠現するを見る。

「三百諸侯」より

新編 藩翰譜における同記述にリンク

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